掲載日:2023年7月10日
「レンズ沼」という言葉を聞いたことがある方は多いでしょう。このレンズが欲しい、あのレンズも欲しいといった繰り返し何度も襲ってくる欲求の波にのみ込まれ、気がついたらそのレンズが防湿庫に入っていたとか、ザックに入っていたという摩訶不思議な現象がソレ。「いま、私はそこにいる!」という方もきっと少なくないはず。レンズの夢を見るだけでなく、そのレンズを見ているだけで夜通し飲めるほどに溺れてしまうレンズに対する欲求…。怖いですね。
でも写真で己を表現している者なら、レンズ沼に嵌るのは当然のことであり、そこを通らずして、ひとかどの表現者は名乗れません。ご安心ください、みんな、同類ですから。
レンズ沼に陥る理由の第一は、「あのレンズを使えば、自分にだってあんな写真が撮れるんじゃないか」と思うところにあるのではないかと思っています。あの超広角ズームを使えば、木の形をデフォルメしたダイナミックな表現ができるんじゃないか…。ズーム比の高いあの高倍率ズームを使えば、そのレンズ一本でなんでも撮れるんじゃないか…。あの大口径の望遠ズームを使えばボケ表現がし放題なんじゃないか…。
そういう思いに頭が支配され、寝ても覚めてもそのレンズの事を思い、暇さえあればカタログを眺めている自分に気づいたら、心と身体の平穏のために、恋焦がれているレンズを手に入れたほうがよいでしょう。懐が寂しくなった現実と共に、大いなる幸せが訪れます。
なんだか余計な前置きが長くなりましたが、この記事を読んでいる一部の方が、買おうか買うまいかと悩み、沼にどっぷりと嵌り込んでいるレンズの話を、これからしていきます。背中が押されることは間違いないので、その覚悟をお持ちのうえ、お読みください。
ところで、私自身は風景写真家です。マクロレンズを自在に操る職人ではありません。今回の記事は、「風景写真家が自然を対象にマクロレンズで表現してみた」という内容です。ご承知おきください。
さてそのレンズは「M.ZUIKO DIGITAL ED 90mm F3.5 Macro IS PRO(以下:90mmマクロ)」。名称から読み取れるのは、90mmの単焦点レンズで、絞り開放F値は3.5。手ぶれ補正機能を搭載したマクロレンズで、PROシリーズに属するということ。35mm判に換算すれば180mmという長焦点のマクロレンズ、という性能なので、世に出回っているマクロレンズとは一線を画す印象があります。しかしこのレンズの肝は製品名称から読み取れる部分にはなく、表からは見えない「撮影倍率」にあります。このレンズが発表されたとき、「撮影倍率が4倍!*」と聞いて驚いた方は多かったのではないでしょうか。通常、マクロレンズの撮影倍率は等倍(1倍)が標準性能です。等倍とは、1㎝の被写体がセンサー上に1cmで写るということですが、このレンズでは4cmのサイズに写すことができるということなのです。
さらに、テレコンバーターレンズも装着可能ということで、MC-20との組み合わせでは、なんと撮影倍率8倍*の撮影もできてしまいます。
もともとマクロ写真に興味があるなら、4倍*の撮影倍率には興味津々でしょう。どこまで被写体に迫れるのか、どこまで己の興味を掘り下げることができるのか、肉眼を超える世界とは何か、そんな欲求に応える相棒として90mmマクロは登場したのでしょう。
しかし、このレンズ。甘く見ていると、ブレる、ピント位置が悪い、構図が崩れているといったしっぺ返しをくらいます。撮影倍率4倍*の世界は細心の注意を払わなければ満足のいく結果は得にくいのです。
注意を払うべきポイントの1つ目は、被写体が静止していること。わずかな風であっても撮影倍率4倍*の世界中では、被写体は大きく動きます。2つ目は、三脚を使うこと。手ぶれ補正機能が働くため、等倍あたりでは手持ち撮影でも問題ありませんが、撮影倍率4倍*になるとよほどの技術がなければブレが生じやすくなります。一方で、三脚を使って極小の世界を思うままに画面構成すること自体もそれなりの技術を要するので、注意や慣れが必要です。3つ目は、絞ること(F値を大きくすること)。撮影倍率4倍*の世界では被写界深度は極めて浅いので、絞らないとどこにピントが来ているのかわからない写真になる場合があります。絞り込む、場合によってはOM-1などのカメラに搭載されている「深度合成機能」などに頼る必要も出てきます。
しかし、こういった壁を乗り越えた先に、これまで味わったことのない世界が拓けるのです。楽をして得たものより、苦労の末に勝ち取ったもののほうが感動は一入です。
手持ちで撮影しています。左の写真はピントも合いブレもありません。一方、右の写真は描写がわずかに甘い状態です。かなり慎重に撮影したはずなのですが、子細に観察すると、このような粗が発生しています。
4月の中旬ごろに出合った霜。左の写真は通常撮影によるものですが、ピントが合って見えている範囲はとても狭いことがわかります。そこでOM-1に搭載されている「深度合成機能」を使って撮影したものが右の写真です。結果、葉の表面全体にピントが合って見えるように表現できています。
すでに述べたように、撮影倍率4倍*もしくはそれに近い撮影倍率になると、撮影を成功させるハードルは高くなるのですが、それに見合った結果は得られます。人が自然体のまま風景を見ている範囲では決して体験することのできない世界、それを掘り起こしてくれるレンズが90mmマクロです。一度でも極小の世界に入り込んでしまうと虜になり、広い視野で風景を見るのと同じ頻度で、その世界を求めてしまう。楽しくもあり、恐ろしくもありますが、挑戦のし甲斐はあると思います。
厳冬期の2300メートルを超える高山にある建物のガラス窓にできた氷の結晶です。窓全体に様々なカタチの結晶があり目を楽しませてくれていたので、極めつけの造形美を探していたところ見つけたものです。松の木が2本並んでいるようにも、サンゴが寄り添っているようにも見える不思議な結晶。三脚もなく強風下で撮影したため失敗の連続でしたが、なんとか撮れていた一枚です。こんな世界を掬いとることができるなんて、素晴らしいことではありませんか。
いったい何が写っているのか。そんな思いに駆られるように撮影したイチョウの木の樹皮。これまで気にもしなかった被写体が、この90mmマクロを持っていると、急に近しい存在になるから不思議です。初めて撮影したマクロの世界のイチョウは、牡蠣の殻のように感じられました。
桜の木に生えた苔と、その向こうに見える桜の蕾。4倍*とまではいかない撮影倍率ですが、それでも等倍以上なので慎重に撮影しなければいけない場面です。手持ちだけでは成果が出しにくいので、三脚の雲台に右肘を乗せ腕全体を安定させたうえで、構図やピントの微調整を行って撮影しています。
手を伸ばせばそこにある、一歩進めば手に取れる、そんな被写体を思いのままに切り取れる性能を90mmマクロは備えています。近距離の被写体は、自分が動くことで画角調整ができるので、ズーム機能を必要としなくても撮影をすることができます。面倒くさがらずに動きさえすれば100パーセントの正確性で構図は作れるはずなのです。
撮影倍率4倍*マクロといった、息が吹きかかるほどの距離感の被写体は割合高いハードルがありますが、ここで語っているような距離感の場合は、手ぶれ補正機能がしっかりと働いてくれるので、手持ち撮影が悠々楽しめます。
まだ冬のさ中の1月に咲くロウバイの花が、昨秋に散った落ち葉の上で日向ぼっこしているような風景。しゃがみ込んでレンズを覗くと、撮りたい画角にぴたりとはまっていて爽快。構図の微調整をし、手持ちハイレゾショット機能を使って撮影。ハイレゾショットの解像感と、レンズ自体が持つ解像感の良さが相まって、この上なく素晴らしい画質になっています。
桜の蕾を前ボケ越しに見る構図。少しボケを蕾の集合体に重ねることで、より優しさや柔らかさを演出しています。よく見ると、蕾の綿毛の一本一本がリアルに描写され、そのことで異様なほどの立体感が生まれています。絞り開放F値を使っていますが、このレンズは開放値でも描写力が高く安心して使える性能があります。
乙女椿の花を少し見下ろすようなアングルから撮影したものです。少し腰をかがめるような姿勢をとり、AFを使って花びらの縁にピントを合わせていますが、実に正確にピントが来ていることがわかると思います。花びらのボケ味も優しくとろけるようです。
4月の冷え込んだ朝。標高の高い長野県志賀高原にある木戸池では氷が張りました。アイスバブルというのでしょうか、あちこちに刺激的な造形美が出現していて、撮るのに大忙し。これはそのうちの1つで、まるで鼻ちょうちんを膨らませたマンボウのようなとぼけた表情に惹かれました。こういった足元の被写体を切り取るには最適な焦点距離と言えます。
水芭蕉のリアルな水中花。遊歩道の脇に流れる小川の水中から顔を出した水芭蕉を、中腰の姿勢をとり俯瞰気味に撮影しています。撮りたい範囲がピタッと決まる焦点距離です。ホワイトバランスを3800Kにすることで、やや過剰なほどの青みに仕上げています。
35mm判に換算すると、180mmの望遠単焦点レンズというスペックが浮かび上がってくる90mmマクロ。これは風景写真に当てはめると、目を凝らして見つめた部分を、気持ちよくスパッと切り取ることができる表現力です。もちろん、ズームレンズではないので対応力が広いわけではありませんが、マクロ域を攻略しつつ、大きな風景のピンポイントを切り取ることができるという性能は重宝します。
なにより、遠景に対する描写力が、マクロ域におけるそれと同等に仕上がっているため、微細な情報で成り立っている風景も精密に表現することができるのです。望遠レンズで遠景の風景を撮ると、どうしても解像感に不満が残るという経験をしたこともあるかと思いますが、90mmマクロはそういった心配は無用なのです。
2023年2月10日、梅が咲く頃に東京にも雪が降りました。それなりの降雪が見込めたので梅林を訪ね、90mmマクロで風景の切り取りやクローズアップに挑戦。この写真は左に松、右に未開花の梅の木、中央に紅梅を配置しています。ここを切り取りたいという思いと、レンズの画角がピタッとはまった場面でした。
2023年の春は桜前線が駆け足で通り過ぎ、ふだんより10日以上も早く各地を彩りました。この写真は長野県高山村にある水中の枝垂桜と残雪をいただいた山との組み合わせです。桜が作る理想的な額縁の中に、白い峰がすっぽりと収まる構図は、この写真の空気感のように気持ちの良いものでした。画像を拡大すると、桜の花の1つ1つが解像されていて、納得の一枚となりました。
菜の花と桜という春の2大スターの共演。花見客が大勢いる中での撮影でしたが、撮影ポジションを下げ、ピンポイントを抽出することによって、余分な要素がまったく見えない表現に成功しています。絞り値をF8.0まで絞って、やや被写界深度を深くしていますが、それもあってピントを合わせた菜の花の描写はキレキレです。
厳冬期に霧氷が訪れた志賀高原。斜逆光のアングルから見た山は立体感が美しく、その印象をストレートに引き出せる部分だけを切り取っています。感動した部分だけをサクッと切り取れる焦点距離は、マクロでも遠景でも重宝します。
待ちに待った長焦点の望遠マクロレンズですが、まさかの撮影倍率4倍*を引っ提げての登場。被写体にどこまでも迫ることができる性能は、決して簡単に使いこなせるものではありませんが、だからこそその先に究極の世界が待っているわけです。
誰もが必要としている世界ではありませんが、このレンズを持っているといつでもその世界を味わえると思うと、心に余裕が生まれます。仮にそういった深遠の世界を撮らなくても、通常のマクロレンズとして、あるいは望遠レンズとして使えるので、持っていても決して損はないでしょう。
開放F値に3.5を採用したことによって、レンズのサイズや質量が抑えられたと思いますが、このことによって携行しやすく、長時間の手持ち撮影でも疲れることはありません。日常的にマクロ表現にも望遠表現にも使えるレンズとして、活躍の場は限りなく広く、表現の幅はさらに拡大するのではないかと想像しています。
*35mm判換算値
本記事を5月25日(木)に公開する予定でしたが、公開前5月21日(日)に萩原史郎先生がご急逝されたため、公開日を変更させていただきました。
「自然風景写真はもっと自由な表現があっていい」と萩原史郎先生の言葉が記憶に残ります。
いままでの多くの説得力のある写真と言葉を残して頂き深く感謝するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。